授業報告
「ぼくの家だけあかりがともらない」野長瀬正夫
@私の教材解釈
ぼくは、畑仕事に疲れて、後ひと畝というところで、ふとあたりを見た。するともうすでにうっすらと暗くなってきている。谷のほうを見ると、村の家々に明かりがつきはじめた。そのような景色を美しいと感じしばらくながめることになるのである。ほとんどの家にあかりがついた。
ぼくは、もうそろそろ自分の家がつくのではないかということを考え始めたのである。そう思っていたら、他の家がついた。今度はうちかなと思ったら他の家がつきということを何度か繰り返したのではないだろうか。そうこうしているうちに、ついに、あかりがつかないのは自分の家だけになってしまったのである。この時ぼくは「どうしてだろう」という疑問が生じる。しかしこの時の疑問は、まだ、ぼくにとってそれほど大きな不安から生まれたものではなく、へんだなあというちょっとした気持ちから出てきたものである。
しかし、「ぼく」はその疑問を解くために、いろいろと考えをめぐらした。一番心配なのは、まだ幼い2人の娘みわとゆうこのことである。
そのことは最初に「みわよ ゆうこよ」とぼくが呼びかけていることでも分かる。また「おかあさんはぐあいでもわるいのか
それともお使いにいってまだかえらないのか」ということを平然と並列に表現していることからもおかあさん以上に娘のことを思っていることがわかる。この2つの例に共通した心配ごとは2人の娘が暗い家のなかで悲しんでいるということになるからである。「ぼく」にとって家にあかりがともらないのは2人の娘が悲しがるということにつながっているのである。
だが、この時点でもだんだん畑をかけおりるほどの不安はまだ生じてはいなかった。それは、その後の「そんなときはふたりで、えっさ、えっさ、台所のこしかけをもってくるんだよ」という表現からも分かることである。とくに「えっさ、えっさ、」などという温かく余裕のある表現が出てくるというところなどそのことを如実に表している。
しかし、その「えっさ、えっさ」という余裕のある言葉が皮肉にもそぼくの気持ちを大きく変化させることになったのである。それは、この時、ぼくの頭の中に2人の姿が「えっさ、えっさ」の擬態語によってまるでそこにいるかのように鮮明に浮かび上がってきたのである。
幼い娘の姿を鮮明に描き出してしまったぼくにとっての不安は一気に大きくなったのである。最初「ぼくの家」だったものが「ぼくの小さな」家へと変化したこともぼくの気持ちに変化が起こった証拠でもある。
最初の「それなのにどうしてだろう」と最後の「それなのにどうしてだろう」はぼくの気持ちの深さはまるで違っているのである。そしてその大きくなった不安によってぼくはついに「あとひとうねをのこしたまま
だんだん畑をかけおりた」という行動を起こすことになったのである。
A本時の目標
ぼくの家だけあかりがともらない。最初「ぼく」はそのことに対して疑問を感じる程度だった。しかし、みわとゆうこの具体的な姿を思い浮かべたために、いても立ってもいられないくらいの不安を覚え、だんだん畑をかけおりていったことをつかませる。
B主な発問
1「ぼく」というのは「お父さん」なのか「お兄さん」なのか。
2ぼくは、「お母さん」と「みわとゆうこ」のどちらの方を心配しているのだろうか。
3最初の「どうしてだろう」と最後の「どうしてだろう」の気持ちは同じなのか違う
のか。
4気持ちが変わった原因は何だろうか。